2016年11月8日火曜日

加藤清之助 2016-11-8追記あり

■台北の南洋協会台湾支部から1922年(大正11年)に出版された『苧麻』を書いた加藤清之助のことを調べている。

■2016年5月18日 追記※
 
■ 繊維を採取する植物カラムシ。和的にはその繊維を青苧(あおそ)、あるいは青麻(あおそ)と表記することが近世までは多かった。近世の大沼郡野尻組(現在の昭和村)の書面をみると「からむし畑」「青苧」という表記が確認できる。しかし近代となり明治時代には中国本土、台湾、朝鮮半島からのからむし(ラミー)が輸入され、「苧麻(ちょま)」という表記がなされる。

 暖かい国の草であるカラムシは、中国大陸が現在も主産地で、その栽培品種数は1000を超えている。商品表示で麻と表記できるのは、このカラムシのみである。ほとんどが中国産。台湾もからむし生産地域で、第2次対戦前、日本政府の植民地下でも調査、利用がなされた。その中心となったのが南洋協会台湾支部である。

 戦前、野尻中向の人がラミー(海外種の苧麻)の根を昭和村に導入した経過がある。また明治期にロシアに渡りからむし栽培をして帰国した人も大芦の赤田墓地近くにラミー(海外種)を植えており、この品種は、現存している。
 カラムシ類は花粉による交雑が多く、こうした移入種による交雑も起こっている可能性があるが、特に明治期は積極的に海外種を政府農務機関が導入した経過がある。
 明治期に大芦村長を勤めた五十嵐伊之重も広く国内外のからむし品種に興味を持ち、大芦産のからむし根と交換をしていることが、静岡県側に残された記録から明らかになっている(福島住一)。

 日清戦争後、台湾統治をした日本政府は、特に苧麻の栽培・移入に力を入れている。



■ 私が、この最近の17年間、調査を続けている人物に加藤清之助がいる。大正年間に書籍を台湾で刊行しているが、肩書を含め人物像が不明であった。当時の大芦(現在の大沼郡昭和村)のカラムシ栽培についても言及している。

 からむし(青苧)の研究者で、著作『苧麻』は大正11年に南洋協会台湾支部から出版しており名著であり、古書として購入し所有もしているが、その調査をはじめてからも、なかなか人物像がつかめない。

 この春、鹿児島生まれの田代安定の関連資料が台湾の大学で公開されていることをしり、同時代人の加藤清之助との書簡等があるかどうか、興味を持って公開されているデジタルデータを閲覧していた。→台湾大学田代安定文庫


 また加藤清之助の著作の2冊の巻頭言で謝辞を述べている人名についても、調査をしている。そうしたなかで、5月になり、いくつかの糸口が見えてきた。

 ひとつは『台湾農会報』の1942年(昭和17年)と翌年の雑誌に連載をしていること。そしてその雑誌の巻末には「執筆者紹介」が掲載されていることを発見した。現物は国立国会図書館蔵のため、閲覧する必要性があった。

 月刊誌『フローリスト』『地上』等に連載記事を持っている千葉県在住の松山誠さんが国会図書館へよく行っており、花の市場や花の装飾に関する歴史、雑誌の調査をなさっていたことを思い出し、松山さんに『台湾農会報』の調査協力をお願いしていた。
 昨日(2016年6月17日、午後4時13分、その松山誠さんから電子メールが届いた。次いで6時17分にも調査したことについて情報があった。

■ 『台湾農会報』の昭和17年7月号(4巻7号)の「芭蕉科植物の繊維に就いて(上)」の加藤清之助は、「大日本製糖 北港製糖所」という肩書きであった。

 また18年5月号(5巻5号)では、「大日本製糖 苗栗製糖所長」が加藤清之助その人であった。

  著者の情報として、当時の勤務先がわかれば、あとはなんとかなります。


■ 未明より調べてみると、同姓同名の人が同時代に数名いるので、注意が必要であるが、

 加藤清之助は、昭和9年に南大東島の製糖会社の農務係長として「加藤さんは神様」と言われていた、ということが出典(原典)を確認していないが、

 駒澤大学の『駒澤社会学研究』1988年3月の、長谷部八朗「離島村落の変貌過程とその課題   沖縄・南大東島の場合」の182ページにある。




 

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■ 2016年11月6日、8日、追記
 
台湾在住の馬さんの調査・教示により、詳しい情報がわかってきています。 

なお、『苧麻』を執筆した加藤清之助についても調査いただいて、本籍地が山形県であることがはじめて明らかになりました。台湾史研究所の台湾総督府農業試験所職員録で、
 大正7年(1918)、8年は農事試験場種芸部の技師
 大正9年(1920)は農事試験場嘉義支場の技師。
 昭和19年(1944)は新竹州 州會議員。






  

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 加藤清之助著『苧麻』(大正11年12月刊、定価2円送料共、台湾総督府 南洋協会) 
   


   
   




   

  『苧麻』例言で謝意を述べている2名について
  職員録ウェブで写真閲覧してみると(ウェブ検索では東郷實はヒットしない)。
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  東郷實、田中秀雄は、台湾の台湾総督府、農事試験場の職員。
  東郷實は鹿児島県出身の農事試験場技師を経て、台湾総督府の調査課長(大正11年)。後に政治家。東郷実。
  田中秀雄(※1)は同僚で、熊本出身。農事試験場技手。種芸部。
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 加藤清之助は台湾の農事試験場に勤務し、『苧麻』の著作を書き上げたことを想像できる。職員録でウェブ検索では大正7年から9年までの職員(技手)であり、山形県が本籍地であることがわかった。ただウェブ検索ではヒットしない例(東郷實)もあることから、ウェブの職員録の写真閲覧を行い、精査する必要がある。
 台湾から、製糖会社に勤務し、昭和9年には沖縄県南大東島、そして台湾に戻り、大日本製糖の工場勤務、苗栗工場長を経て、この工場がある新竹州の州會議員(昭和19年)、、、というところまでわかった。
 『苧麻』を読み返してみると、台湾との日本内地の比較事例は「山形県」が多く、山形県生まれで、ある程度、そこでの苧麻との関連があったことが推察される。米沢苧(そ)、最上苧の青苧(からむし)産地を持つ山形県。会津はその南隣りの産地である。
 近世は青苧(あおそ、からむし)と表記することが多いが、明治期は中国大陸からの輸入が増え、中国の読みの「苧麻(ちょま)」という表現が出現していく。
 苧麻の本場の中国大陸を知る植物学者・農学者は、日本国内、特に南西諸島(沖縄等)や台湾統治後は台湾へも「苧麻」作付け・産業化を田代安定などが推進している。
 戦前、日本産からむし(苧麻)品種は、宮崎県の農業試験場に集められ試験研究が進められた。


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 田中秀雄,熊本県人。1890 年1 月2 日出生,1908 年3 月熊本縣立球磨農業學校卒業,. 1908 年10 月私立肥料分析技術員養成所結業,1911 年 4 月 6 日臨時台灣糖務局附屬糖業試驗場雇,10 月 16 日殖產局附屬糖業試驗場雇,1912 年 9 月 24 日依願免職,1913 年 11 月 4 日台北廳農會水返脚支會技手,1916 年 1 月 10 日台北廳水返脚支廳雇,5 月 18 日台北廳士林支廳雇,1917 年 4 月 10 日台北廳庶務課雇,12 月 8 日台北廳庶務課技手,1918 年 9 月 13 日農事試驗場種藝部技手,1921 年 10 月 5 日殖產局農務課技手,1924 年 12 月 25 日殖產局特產課技手,1933 年 9 月 28 日依願免職,1933 年 10 月 3 日殖產局囑託,負責擴大青果銷路相關事務。參閱〈田中秀雄囑託﹑手當﹑勤務〉,《臺灣總督府公文類纂》第 10239 冊第 6 號,昭和八年,永久進退。(莊惠惇、許進發「日本殖民政府技術官僚認知的咖啡及其世界市場」25ページ pdf)